門司の歴史


門司の歴史は、黄金塚の碑が残っている縄文時代から始まったと言う伝説が残っているようです。伊川の白山神社 の近くに平山の縄文人が作った、死者を葬った「どこうぼ」があったようです。約3700年前のものだという事です。中には何も残っていなかった。平山の縄文人が作った、「土器」「矢じり」 が出土されています。場所は、吉志天疫神社の左横の一帯です。現在の、アイルモータースクール門司の海側に、「中原遺跡」があったようです。弥生時代(紀元前300年〜300年)には、 大里弥生人が土器を使った痕跡が大里桃山遺跡に残っていたようです。場所は、大里桃山になります。 現在は、宅地になっています。弥生土器が出土した所に、大積弥生人がいます。大積天疫神社の前一帯です。大和時代には、門司は、「豊国の聞」と言われていました。門司の豪族は、大里と猿喰に古墳を作らせています。丸山古墳跡と黄金塚古墳跡があったようです。黄金塚古墳跡は、「黄金塚の碑」として大里東通りの国道添いに残っています。猿喰新田の前身は、「船泊古墳」がありまし た。その山手の小高い丘をガンドウと言い、円墳が2つ残っていますが、いつのものかは、不明だそうです。ここの撮影は、地元に人に止められました。霊感はあまりないのですが、気分が乗らないと撮影はしないんです。大和朝廷が527年に門司に進出しました。 535年に、九州の玄関口の門司を周辺の地に屯倉を置き、門司は、大和勢力の組み込まれた。642年大化の改新の時に、門司に関所が置かれました。現在の「門司ヶ関址」です。門司を詠んだ歌人もいます。柿本人麻呂(かきのもとのひとまろ)も関の浜を詠んでいます。現在の東新町あたりです。奈良時代(710年〜794年)は、有名な万葉歌人が門司関を往来しています。このころの門司は、6歳から勤労者にさせられ、納税をさせられていました。

平安時代から門司の歴史に大きな変化が現れてきています。空海と満隆寺です。門司区の戸ノ上山のふもとの戸上神社の片隅に、満隆寺があります。この満隆寺の開祖が空海こと弘法大使と言われています。806年に空海が、関門海峡を通っ ているときに、戸の上山を見た空海が、霊感を感じ、浜辺に船をとめ上陸し、山ろくにお堂を建て、その中に仏像を安置し、 宗教に基づいた仏事を行いました、これが、のちに満隆寺になったということです。伝説地として、「太刀の池」なるものが、太刀の浦 にあります。この池は、水枯れも水位も低下しないと言う不思議な池でした。この地に伝わる、伝説は、2つ残っています。また、 「平家一杯の水」というのもあります。めかり観汐遊歩道添いにあります。鎌倉時代(1192年〜1333年)になると、門司は、企救群の 一部になっています。鎌倉幕府の中心の源氏のあとを北条泰時が継ぎました。北条泰時は、関門海峡に面した門司を西国で一番重要な要と考え門司に地頭職を置きました。地頭職には、藤原親房をおきます。すぐには、門司に上陸することが出来ず、門司に上陸出来たのは、11年後でした。上陸が出来なかったのは、門司の地には、平氏に片寄る一族がいたからです。親房は、門司 ヶ関を見下ろせる、古城山の頂上に城を築いて、本城としました。親房の子孫は、藤原と言う姓を捨て、門司と姓を変え、門司の地の支配者となったという伝説が残っています。

南北朝時代(1336年〜1392年)、足利尊氏が門司港の甲宗八幡宮に寄港し、門司氏などの北部の武士団を率いて、京都を奪還するために船出をしました。猿喰城の攻防が行われたのもこのころです。猿喰城は、大久保山頂にありました。猿喰城下の峠を「七ツ石峠」と言います。ここは、七将亡霊伝説があります。峠に入り口が、城山霊園です。ここまで行くと、寒気がします。この亡霊は、南朝方の6人の武将と、北朝方のちかみちだといわれています。猿喰城の合戦は、敵味方入り乱れての戦いでした。現在は、石室と石碑が建っています。安土桃山時代(1585年〜1603年)、織田信長と豊臣秀吉の時代です。このころ九州は、3つの勢力が対立をしていました。1597年小倉城に入った秀吉は、岩石城を半日で攻め落とし、九州の大名の配置を行いました。1592年秀吉は、母の急病を知り、大阪に戻る途中大里の沖合いで、岩礁に乗り上げ、海に放り出されました。この責任をとり船頭であった明石与次兵衛が切腹をしました。記念碑が、めかり公園にあります。

江戸時代になると参勤交代の為に九州の大名は、関門海峡を渡らないといけません。小笠原忠真は、大里村に宿場を作りました。 宿場には、大名が宿泊する本陣、一般の旅人や侍が泊まる宿、雑貨屋等が設けられました。1799年幕府が宿場の西の端に、長崎奉行所の出張場を作り、長崎街道が小倉までから大里までに変更されました。 1732年大凶作で、前年に続いての凶作でした。4人に1人の割合で死者がでていました。飢餓地獄に陥った人々を藩主が蔵の米を人々に分けていました。この飢餓を機に大里村の庄屋が、1738年に庄屋職を息子に譲って、猿喰湾の開拓をはじめました。これが、猿喰新田です。1733年に、耕作をする人々の安全と豊作を願って、裸島に厳島神社を建てました。1757年から16年もかかり、新田から米が収穫できるようになりました。伊能忠敬は、1809年12月に測量をする為に北九州にはいりました。 1837年青浜の小高い丘の上で毎晩火を焚く1人の僧が住み着きました。海峡を航行する船の安全を願って灯台の役目をしていました。この僧が、清虚です。清虚は、1850年まで、13年間毎日火を絶やす事なく、焚き火を続けました。その後、部埼灯台が出来ることになりました。明治時代(1868年〜1912年)、門司で行われた、長州藩と小倉藩の戦いは、長州藩が勝利しました。小倉城は長州藩が支配する事になりました。長州藩と西郷隆盛が指揮する薩摩藩が幕府を倒そうとする考えが全国に高まりました。この年、徳川慶喜は政権を京都の朝廷に返しました。大政奉還です。人々の政治に対する不満は、門司でも起こっていました。 1872年門司では、田野浦村の真楽寺や大里村の佛願寺で、寺子屋教育がはじまりました。1874年門司では、地祖改正が実施されました。門司は、1615年門司城が壊されたのち、交通の中継地としての役割を果たしてきました。1889年門司に港と鉄道を作ることになりました。1891年鹿児島本線の起点駅であり終点でもある門司駅(現在の門司港駅)ができました。1963年門司は、小倉、戸畑、八幡、若松の5市が合併をし、北九州市になりましたとさ。終わり


門司の名所・旧跡巡り